日産ゴーン氏の進んでいた広報への考え方
いろいろと取りざたされているゴーン氏だが、日産再生期の広報において、効果的な施策を打った側面があったようだ。
ゴーン氏も説き伏せた 「すご腕」女性広報の対話力|出世ナビ|NIKKEI STYLE
仏ルノーから日産自動車に来たばかりのカルロス・ゴーン氏を支えたのが、専属広報を務めた田中径子さんだ。駐ウルグアイ日本大使という異例の経験を経て、今は日産フィナンシャルサービスの執行役員に就いている。
男女雇用機会均等法が施行される前の話だ。
女性の社会進出は、今よりも断然難易度が高かったようだ。
女性の社会進出は、今よりも断然難易度が高かったようだ。
「女性が会社の中でキャリアを築くのはまだ難しい時代でしたから、留学でもしない限り、キャリアはひらけないだろうと思っていました。指名制だったので、だめなら私費でも行こうと思っていたのですが、制度が変わり、ある程度の勤務経験と英語力さえあれば応募できるようになり、その最初の年に応募して受かったんです」
私費でも留学しようとした覚悟があったそうだ。
帰国後、さまざまな広報業務を経験したらしい。
帰国すると、広報部で企業広報を担当した。記者クラブにリリースを配布し、ひっきりなしに入る記者からの問い合わせに応じつつ、次に出すリリースを準備するという、多忙な毎日を送った。96年から99年までは、北米日産ワシントン事務所に勤務。米商務省や米通商代表部(USTR)へのロビー活動、東海岸の日本メディア対応、格付け会社への説明などに奔走した。
そのとき、窮地に陥っていた日産は当初、独ダイムラーベンツとの出資交渉を進めていたが、最終的にダイムラーベンツは日産から手を引いた。
間もなく、そんな田中さんのもとに即帰国の命が下る。提携先のルノーからCOO(最高執行責任者)として日産にやってくることになったカルロス・ゴーン氏が専属広報を必要とし、語学力もあり、広報としての経験も積んでいた田中さんに、その白羽の矢が立ったのだ。
ゴーン氏が変えた日産の広報
「ゴーンさんが日産に来て、まず何が変わったかといいますと、社内広報と社外広報が一体化したことでした。従業員はそれまで、会社の重大ニュースを新聞記事で初めて知ることも多かったのですが、彼が来てから社内広報と社外広報は同時か、社内が先かに変わりました。体制的にも、それまで社外広報は広報部が、社内広報は人事が担当していたのですが、両方とも広報部が担当するという形に一本化されました」
その結果、新聞紙面で初めてニュースを知った社員が慌てふためくようなこともなくなったという。再建の最中にあった日産にとって、これは非常に重要なことだった。
社員が増えれば増えるほど、また危機になればなるほどなおさら、定型的な広報の考え方だけでは対応が難しいことが多い。良い時は記事に目を留めない社員も多いが、良くないときはネガティブな記事を探し出し、落ち込んでしまう社員も増える。
「こういう記事が出るよ!」と知らされていれば、その落ち込みのギャップは小さくなる。
ゴーン氏の人心掌握の考え方と広報オペレーションが臨機応変だったと思われる事例だ。
「こういう記事が出るよ!」と知らされていれば、その落ち込みのギャップは小さくなる。
ゴーン氏の人心掌握の考え方と広報オペレーションが臨機応変だったと思われる事例だ。
広報ウーマンの意見を傾聴し、危機管理広報に必要な透明性を実現
本音でコミュニケーションする田中さんを、ゴーン氏も信頼していたのだろう。2000年に社長就任するにあたり、前任者の塙義一氏とともに記者会見を開くことになった際のエピソードがそれを物語る。
このような場合、日本では新旧社長がそろって会見に臨むのがならわしだ。しかし、ゴーン氏は当初、「なぜ2人並んで会見しなければならないのか?」と抵抗を示した。それを田中さんが説得。ゴーン氏は納得したわけではなかったが、最後は「君がそう言うならやろう」と、塙氏と並んで会見に出ることを承諾した。
職位がそう高くない社員(当時)の意見を傾聴する姿勢を持っていたことがわかる。
田中さんによると、ネガティブな前評判を完全に払拭できたのは、ゴーン氏が日産社長に就任して2年目にあたる2002年の春闘での決断だったという。
「最終回答までおおむね5回交渉をするのが慣例ですが、ゴーンさんは5回目を待たずに3回目で労働組合が求める賃上げとベースアップに対して満額回答をしました。決めたのだからあとの2回をやるのは無駄だろうというのがゴーンさんの考え。当時の役員は驚いていましたが、言われてみれば、そうしてはいけないという決まりごとがあるわけではなく、ただ、それまでそのような決断をした人物が誰もいなかったというだけのことでした」
給与交渉など、当時5回まで引き伸ばすのが定番だった日産の風習に対して、3回目で満額回答。この振る舞いもリーダーとして尊敬を集める理由になったと思われる。「まだあと2回も交渉しないと決着がつかないのか…」と思っている労組の組合員にとっては、迅速に最終判断をした経営者という良い意味での見え方になったのではないだろうか。
当初、社内にも社外にもほとんど味方のいない環境の中で、ゴーン氏が田中さんに期待したのは「トランスペアレンシー(透明性)」だったという。
「心がけていたのは、ゴーンさんにとって耳の痛い話も包み隠さず伝えることです。伝えるとちゃんと聞いてくれましたし、『伝えてくれてありがとう』と言ってもらえました。ゴーンさんも日産の従業員も共通して願うのは『会社を再建すること』。最終的に会社の利益になることは何かを考えて動く限り、そんなに大きな問題はなかったと思います。私は日産の生え抜きですから、同僚たちからすれば、ゴーンさんには直接言いにくいことも私には言いやすかったでしょうし、ゴーンさんにとってもそれはよかったのかも知れません」
危機管理広報時の透明性は非常に重要となる。
メディアと最前線で接する広報ウーマンは、記者や編集者と積極的に情報交換を行うため、企業にとってのリスク報道の可能性を最も先に知ることができるポジションにいる。
時に経営者にとって、耳の痛い話もあるのだが、それを右から左に聞き流したり、常にはねつけてしまう経営者も多い。
危機管理広報の時こそ、広報担当者の声に耳を傾けてみるというのが重要になるだろう。
時に経営者にとって、耳の痛い話もあるのだが、それを右から左に聞き流したり、常にはねつけてしまう経営者も多い。
危機管理広報の時こそ、広報担当者の声に耳を傾けてみるというのが重要になるだろう。