身体-店頭-記憶

店頭とは何か。もちろん、欲しいモノを探す場所であり、欲しいモノを買う場所である。周知の通り、コロナ禍は店頭に変化を生んでいる。「マスクの着用」、「アルコール殺菌」、「ソーシャルディスタンス」、「時短営業」・・・、これらはすべて変化ではあるが、コロナ禍が生み出した変化の本質ではない。では、コロナ禍は店頭をどのように変質させたのか、あるいはさせるのか。「身体」と「記憶」というキーワードから、店頭を考察してみることにする。

目次

コロナ禍とコミュニケーション

コロナ禍は私たちにいくつもの変化をもたらせた。それぞれの変化の善悪の判断は一旦脇に置いて、いくつかの現象を中立的な視点から取り上げてみたい。そして、そのそれぞれの現象と店頭との関係性を論じながら、今後の店頭の在り方を考察してみることにする。

緊急事態宣言や自粛的な生活は、私たちを自宅に釘付けにした。それらが私たちに最初に自覚させたのは“コミュニケーション”の問題である。今まで当たり前のように発生していたコミュニケーションの一部が否応もなく喪失するか、あるいはストレスを発生させた。(もちろん、今までなかったコミュニケーションが発生したという側面もあり、そこに良い部分、悪い部分も存在するだろう。)端的に述べるならば、私たちは「適切なコミュニケーションに飢え始めた」のである。

ところで、コミュニケーションに必要な要素とは何であろうか。もちろん複数の人間と、何よりもまず、“場”である。コミュニケーションは、この“場”がなければ始まらない。コロナ禍は、ともかくこの“場”を変質、ないしは喪失させたのである。そして、私たちはその“場”の代替をヴァーチャルな領域に求め始めた。様々なリモートワークのアプリケーションに、あるいは様々なSNSのプラットフォームに。様々な芸能人が、コメンテーターが、有名人が、一般市民がそこに新たに出現し始めた。もちろんこうした観点からのサービスも現れ始め、ヴァーチャル領域での訪問、観覧、見物、購買・・・列挙すればきりがないが、実はこれらはすべて何らかのコミュニケーション行為だったことを思い知らされている。

さて、このヴァーチャル領域でのコミュニケーションは、“リアル”でのコミュニケーションと同質なのだろうか。答えは否である。ヴァーチャル領域には決定的に欠けている要素がある。それはつまり「身体性」である。ヴァーチャル領域では、私たちは「身体性」を共有できないのである。

体験と身体性

「身体性」とは、ここではバイオロジカルな意味ではなく、端的に言えば“五感”に関する事柄である。私たちは外界からの刺激をこの“五感”によって受け取るわけだが、ヴァーチャル領域でのコミュニケーションでは、この“五感”に決定的な制限が加わる。(視覚と聴覚以外の感覚はほとんど機能することなく、当の視覚と聴覚も部分的にしか機能しない。)「だからどうした?これかはらそういう時代なんだよ」という声も聞こえてきそうではあるが、事はそう単純な話ではない。

コミュニケーションに置いて重要なのは、実は自分の“五感”以上に「他者の感覚を“共有する感覚”」であり、いわば第六感的な側面である。これはオカルティックな意味での第六感ではない。私たちには、「他者が何かを感じ取っているであろうことを(何となくでも)感じ取る感覚」が備わっている。誰しも経験があるはずだ。「あれ?この人、今話聞いてなかったな」と感じたり、もっとわかりやすい具体例だと、「うわ!痛そう」と感じる感覚である。

人間の感覚はアバウトであっても、他の誰かに伝染するのである。言い方を代えれば、他者の感覚に伝染する能力を私たち人間は備えているのである。しかしこの第六感は、そもそもの“五感”が前提になるわけで(それがないならオカルティックな話にしかならないわけだが)、“五感”に制限が加わると、この第六感にも制限が加わることになってしまう。

これらを総じて「身体性」と捉え直すと、ヴァーチャル領域でのコミュニケーションは、私たちは人間が持つ「身体」の性質の一部に、実は制限を生じさせているということになる。繰り返し述べるが、これはバイオロジカルな意味での(生物的な意味での)身体ではなく、感覚的な意味での「身体(性)」である。私たちは、様々な体験をこの“五感”をもって行うわけであるが、ある体験が体験として成立するためには、実は他者の存在が必要不可欠なのである。「今、この感覚を誰かと共有している」という感覚、「この感覚はあの人に伝わるはずだ」という感覚、こうした感覚(第六感)がなければ、体験のリアリティは損なわれてしまうのである。

体験と記憶

体験のリアリティに他者が必要なのはこれまで述べてきたとおりであるが、「身体的体験」と「記憶」との間にも密接な関係がある。「記憶」とは体験の集積であり、この体験に「身体性」と「他者の存在」が必要不可欠である以上、「記憶」にもまた「身体性」と「他者の存在」は不可欠であると言える。つまり、「身体性」の希薄さは、「記憶」の希薄さにつながらざるを得ないのである。

こう考えてくると、ヴァーチャル領域でのコミュニケーションの負の側面が見えてくる。「身体性」を欠いたコミュニケーションは、「記憶」の重要性を薄めてしまい、薄まった「記憶」とは、語るべきストーリーの希薄さを意味する(「記憶」なきところに物語(ストーリー)の生成はあり得ないことは自明であろう。何かを語る語り手には「記憶」が前提となるであろうし、聞き手にもまた語り手の物語(ストーリー)を想起できるだけの類似の「記憶」が必要である)。これは記号的な「記憶」を意味していない(例えば、電話番号や数値のようなデータ的な記憶、ではないという意)。「記憶」が他者と共有されるには、必ず語りを必要とするわけであるが、この語られる「記憶」は、他者との身体的な共有を土台として初めて伝わり、ある種伝染するのである。

「体験」、「身体」、「他者」、「記憶」、これらは切っても切り離せない関係にあり、それらを他者と共有化させるところ、それが“場”なのである。これは、決してヴァーチャルな領域で十分に担保できるものではない。なぜなら、ヴァーチャルな領域では、これらすべてに制限が加わっているのだから。


店頭体験

ここまで、ヴァーチャルな領域に批判的なまなざしを向けてきたが、殊更にヴァーチャルな何かを否定するものではない。私たちはヴァーチャルな領域を冷静に見つめなければ、人間として重量なファクターを喪失しかねない、と言うだけの事である。もっと簡単に言えば、ヴァーチャルな何かでリアリティが担保できると考えること(決めつけてしまうこと)は実はとても危険なのである。そうした危険な側面をここまで述べてきたわけである。

しかし、私たちはすでにこうした状況に、自覚的にか無自覚的にか反応している。「遠くへ行けない」という移動の制限によって、人々は近くの、例えばホームセンターやカフェに殺到している。昨今のホームセンターの売上動向を見ればこれは明らかな事であるし、今まで見たこともないくらいの行列を生んでいるカフェもある。これは、少しでも「身体的な感覚」を、あるいは他者との「記憶の共有」を失わないようにするための、人間のある種の反応(抵抗と言ってもよい)であるように思われる。

店頭とは、売り場であり買い場である。こうした状況は、店頭が単に売り場としての方法論だけで語ることのできない一側面であり、人々にとっての、これまでとは違ったある種のコミュニケーションの“場”になりつつある萌芽と考えられる(実際には、もともとそうであったと筆者は思うが)。単に、モノやサービスを売り買いする場所ではなく、語るべきストーリーが、視点を変えれば、語られるべきナラティブがそこになければならない。これからは、それらの「交差する“場”の一形態」が店頭であると考える必要があると思われ、私たちは、これから店頭をそういった観点で見つめなければならないのではないだろうか。

こうした観点は、特定のフレームや定式化された方法論で必ずしも表現されるとは思えない。「いま-ここ」で何が生じているのか?具体的な現実に寄り添わなければ、状況は把握できず、人々が交差する“場”の創出には至れない。“現実”と“場”をつなぐもの、それこそがアイデアであろう。だからこそ、私たちはアイデアの会社なのである。